時事情報のコスト

 情報は受け手は事実上只か只同然で得られる時代と言っても過言ではない。無料のウェブや動画、画像などの検索結果だけでなく、映画・ドラマ・アニメ・雑誌・などがその数に比すれば只同然と言っていい値段で手に入る。音楽も無数に只で入手できる。スマホやパソコン等さえ持っていればいいのである。それには元手もいるが、あとは無限大の情報に結びつく。

 この時代に新聞情報はコストがかかりすぎているというのが私には気にかかる。いくら新しいと言ってもあの情報量で月に五千円近くもかかる。遠い未来を夢見るとAIなどで双方向の理想的な時事問題のチューターがつくとか考えたりするのだが、少なくとも大きな情報をタンクして縦横無尽に引き出せるシステムに近いものを薄利多売するような方向に行かなくてこういう時代に合うだろうか。時事離れが深刻になる一因にはならないだろうか。すべての新聞が只同然で見放題くらいのルベルのことが他ジャンルではすでに起こっているのに、明治時代と基本的に同じようなシステムで、わずかにデジタル版があるだけの変化しかない。それも大きな違いかもしれないが、時代は情報の時代で、新聞は少ない情報量を高く売る部類にいつの間にか入ってしまっている。

 映画やドラマもコストはかかっている。鮮度の重大さは分かる。しかし英語なら百科事典だって年に一万円くらいで見放題だったり、今どき情報の受け手がコストを払って読んでくれると思ったらそれは違うのではないか。現に若い人は読まないと言われる。内容はいい。しかしシステムを考え直す時期に来ているのではないか。出来ればとっくにやっているとの主張があるかもしれない。しかしこのままでは時事離れが進むばかりではないのか。そして近未来的には本当にAIによるチューターが時事を案内してくれる時代を準備することがそろそろ必要ではないだろうか。

 

 

希望を見失わない活動

 私が現在読んでいる本は、ノーム・チョムスキーとその影響を受けた人の本だが、アメリカ国家の国内的、また世界的支配の実態には不正義や悲惨が横行している。一般世論は十分に真相を伝えていないが、真相を極めていく努力をしている人の論考を参考にするのが、情報収集には早い解決の仕方の一法だろう。

 弱者が踏みつけにされる中、特に問題のあるパレスティナラテンアメリカの歴史なり現状なりに興味を持つのは意義があろう。日本も改憲の危機を前にして、独裁政権に苦しんだラテンアメリカの歴史を知ることは貴重であろう。ラテンアメリカ同様、日本もアメリカのいわゆる属国から裏庭へと進みかけているからである。私は解放の神学などがどのようなものでどんな役割を果たし、いかなる状況であったかなどに興味を持っている。調べてみたいが、少し長いタームで日本のことを考えたとき、参考になるのではないかと思うのである。また韓国の民主化ポーランドの連帯など歴史的にどんなものだったのだろうと、圧政などに抵抗した例を学んで見たいと思う。絶望的な未来図も描ける時代だが、希望を見失わない活動が重要だろう。

 

 

 

民主主義の基盤

 民主主義と言われる国家で、グローバリズムなどのトランスナショナルな動きも含めてだが、資本の独占が進行すると、余暇や余力、教育の機会など、民主主義を支える基盤は破壊されていく傾向にある。一方旧ソ連では、労働者は余暇に知的努力にいそしむことが指導されてはいたが、実際はそのようなことはできなかった。むしろ労働意欲は削がれ不採算性のためか経済はうまく行かなかった。労働が簡素化され余暇を有意義に使える理想とは多くが異なっていた。冷戦に富が使われて余力がなかったであろうことは確かだが、経済競争でも国内にかぎるとはいえ民主主義でも明らかに資本主義側が勝利していた。しかし現代では資本主義の側に民主主義の基盤を壊す構造が進み、自由は主に資本による経済的自由を指すかのような様相は更に進行している。市民的自由、民主主義を取り戻すにはある程度の平等と余暇など基本となる要素が保障されなければならない。それには社会権的な権利を人権規定として確立される社会を目指して行くことが一つの方法ではないだろうか。フランスのようなサンディカリズム、すなわち組合主義などは労働者の権利意識も高め、そういう方法は成功例だと思うが、国際競争も含め、競争社会という現実とどう折り合っていくかが問われる。市民社会の幅の広い層の知的な面の向上と意識の高まりが必要で、そのためには個々の人々がデジタルやトランスナシヨナルな繋がりで今以上に団結行動していくのが重要ではないだろうか。

 

 

 

 

 

市民的連帯 前のブログの続き

 ジェファーソンは金融機関と、今で言う企業の力に注意しないと特権者に政治を奪われ、それはアメリカ革命の失敗を意味すると述べている。

 国家悪はアメリカに限った話ではない。覇権を守るも倒すも大変な犠牲が生まれることで、そんな国家対国家の話は乗っても問題解決にはならない。

 市民が認識を共有し、それぞれの立場に連帯していく気持ちが大切だ。戦争で割れてるさなかで市民は横に繋がっていたら、それは市民が平和裏に善戦しているということだ。

 連帯していくムーブメントは、我々が良きものになっていくものでなければならないから、市民意識は平和で共感に満ちたものであり、それぞれの立場や個性を尊重したもの、より深い認識をまた人間的成長を促すものとして把握されるべきだ。

 

 

 

 

 

もうひとつのウクライナと国際的連帯

 現在、ウクライナ問題でロシア対ウクライナ・ 

NATOの対立が続いている。しかし現代日本が新

自由主義グローバリズム、金融資本等、アメリ

カの覇権に苦しむからと言って、国家対国家の争

いとしてばかり考えていると、覇権争いという戦

争や経済戦争のどちらかの側につくという話にな

らざるを得ない。これは犠牲を生む点で人間性

敗北であり、むしろアメリカをも含めた市民レベ

ルの国境を越えた連帯としての方角の方が良いよ

うに思われる。つまり経済的な点でアメリカ革命

は失敗しているが内在的に国家対市民の意識に見

識がある市民または現代の犠牲者がアメリカには

いるはずで、彼らとも連帯が可能である。日米の

貧困もアメリカで犯罪と隣り合わせのリスクの

人々ももう一つのウクライナなのだ。